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姉の初恋 [ふたりぽっち序章3]

母親代わりのような姉が家を出て、私は落胆していました。
まるで自分の家が、他人の家のようで
一人取り残されたような錯覚に陥ってしまいました。
大人の事情など何も知らず、ただ大好きな母と姉が居なくなり
すべては父が悪いせいだと思い込んでいました。
その頃から、父が嫌いになり話すことも無くなりました。

一人ぼっちが寂しくて、寂しくて・・・。
私は家に居るのが辛くて、母方の祖母の家や親戚の家に
入り浸っていました。
母が恋しかったからだと思います。
だけど母の居る東京には行けない事を、子供ながら悟っていたのです。
その頃母にも、新しい夫との間に二人目の子供が生まれていたので
私の居場所は何処にもありませんでした。

姉は高校に入学して半年あまりで家を出ました。
私立の女子高でしたが、電車通学でとても楽しそうに見えました。
いったい何があって家を出たのか、その頃の私には解りませんでした。

姉が家を出て半年が過ぎた頃、父宛に一通の手紙が届きました。
差出人は誰なのか良く知りませんが、姉の消息が掴めたようです。
どうやら山形に居るらしいという事、姉は男性と一緒だったらしいという事を
書いてあったようです。
その手紙は姉が未成年だとは知らず、お金を貸した人からの手紙でした。

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驚いた父は、すぐに姉を連れ戻すために山形へ向かいました。
姉は山形の温泉街にある置屋にいました。
父が着いた時には、男性は居なかったようです。
その頃の私はまだ子供だったので、詳しい事情は教えてもらえませんでしたが
後に父から聞いた話では、姉と一緒に山形へ行った男性は
家庭のある人で、奥さんも子供もいたようです。
挙句の果てにお金に困り、姉を芸者として置屋に売ったという話でした。

手紙は置屋の主人からのもので、年を20歳と聞いてはいたが
所々話がおかしいので、詳しく聞いてみたらまだ16歳ということで
驚き連絡をしたという話でした。
芸者になるための支度金や前渡し金は、かなりの額になりましたが
父はそれを払い、姉を福島へ連れて帰りました。

軍隊上がりで厳しい父、母や義母に対して時々暴力を振るっていた父。
姉がさぞかし痛い目に合うのではないかと想像していました。

父は少し悲しそうでしたが、姉を叱り付ける事はありませんでした。
相手の男性の事はぼろ糞に言っていましたが・・・。
裁判沙汰になる事もありませんでした。
多分、姉の将来を思って大袈裟にはしたくなかったのでしょう。

姉はその男性に騙されたのでしょうか?
愛情があったら、まだ子供のような姉を一人置いて逃げる事は無いでしょう。
でも、わざわざ山形あたりまで逃げた理由は何だったのか?
今でも解りません。
ただ姉は、心からその男性を好きだったと言うことは
私にも解りました。
姉は、その人を恨んだり憎んだりする事がみじんもなかったからです。
後にも「いい思い出だったよ!」と笑って話していた姉でしたから。




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姉の家出 [ふたりぽっち序章3]

東京で楽しい時間を過ごし、母に買って貰ったピンクのワンピースを
着て福島に戻ってきました。
このワンピースは私のお気に入りになり、シーズンが終わっても
大切に箪笥にしまっておいたのですが、翌年の夏には何処を探しても
見つかりませんでした。
どうやら義母が捨ててしまったようです。
私が嬉しそうに「おかあちゃんに買って貰ったんだ~」と何度も
話をしていたので、気に入らなかったのかも知れません。

秋の運動会の時もお弁当は、前夜に寿司屋から取った出前の海苔巻きでした。
父の仕事柄、お客さんに頼まれて御寿司の出前は取りますが、子供の運動会に
それを持たせる義母に腹立たしさを感じていました。

月に一度のお弁当の時も、ご飯に梅干そして生味噌をのせてあるだけの
おかずのないお弁当に子供ながらショックを受けていました。
恥ずかしくて、とても蓋を開けて食べられませんでした。
そんな事があってから、お弁当の時は姉がパン屋さんでサンドイッチを
買って来てくれる様になり、この事は父の耳にも入って
家ではちょっとした事件になりました。

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義母はよく働く人でしたが、女性らしい感性はあまり持っていなかったように
思います。料理は下手だし、オシャレのセンスも最低で化粧をしたら
お面をかぶっているような真っ白の顔に、口だけ赤い・・・。
父は義母の何処がよくて再婚したのか、私にも姉にも理解出来ませんでした。

お店は父の頑張りでそこそこ繁盛していたので、金銭的な不自由さは
ありませんでしたが、義母との折り合いはあまり良くなかったので
私は父を少しづつ恨むようになり、自分の殻の中に閉じこもることが
多くなって行きました。
義妹の富佐子も可哀想でした。義母は、父と喧嘩して機嫌が悪くなると
いつも富佐子にやつ当たりをしていたので、精神的なストレスなのか
夜尿症になってしまいました。
それは、富佐子が中学生の頃まで続いていたようです。

義母のいじめ、嫌味、言葉の暴力に耐えられない屈辱を味わっても
子供の私には行く場所も無く、ただ我慢するしかありませんでした。

そんな辛い数年が過ぎる中、父と義母の間に女の子が二人生まれました。
私より8歳と10歳年下になる妹です。
義妹の富佐子はいつも子守をさせられていました。
私にとっても異母兄弟ですが、妹にかわりはありません。
小さな富佐子が可哀想で、私も自然と子守を手伝うようになりました。

すこしづつ義母とも打ち解けられるようになった頃
姉が家出をしてしまいました。
姉が16歳、私が11歳の秋のことです。






タグ:姉の家出
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おかあちゃんに逢いたい [ふたりぽっち序章2]

今思えば父の再婚でショックを受けていたのは
姉と私だけではなく、義妹の富佐子にとっても大変な事だったでしょう。
父は優しい人でしたが、子供とはあまりコミニュケーションを取れる
タイプじゃなかったので、義妹も父を「おんちゃん」と呼んでいました。
父が晩年になる頃には「じいちゃん」と呼んでいましたが
富佐子にとってもきっと、受け入れがたい再婚だったと思います。
子連れ同士の結婚は難しいと言われるのは事実です。

夏休みになって、私は父に毎日毎日「おかあちゃんに逢いたい」と
言い続けていました。
姉も同じように逢いたいと言って二人で父を困らせていました。
母は弟が生まれてから子育てで忙しく、福島に来ることはありませんでした。
堪りかねた父は、母に連絡を取ってくれて母に逢える事になったのです。
夏休みの間に姉と二人で母の居る東京に行く事になりました。
東京に向かう電車の中では、母に逢える喜びで胸がいっぱいでした。

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上野駅に着くと、母の夫(パパと呼んでいた人)が迎えに来ていました。
「おぉ~よく来たな、おかあちゃんが待ってるぞ」と優しい笑顔で
話しかけてくれました。
姉は「どうもすみません」と緊張した口調で挨拶をしていましたが
私はニコニコ笑顔で「ありがとう」と答えていました。

母の居るアパートに着きました。
以前私と一緒に住んでいた部屋から引っ越して
6畳と4畳半の二間があるアパートです。
お風呂が付いていたので、銭湯に行かずにすみそうです。
母は、笑顔で迎えてくれました。
おやつに作っておいてくれたドーナツがとてもおいしかった。
「やっぱりおかあちゃんは最高だ!」私は心の中で何度も呟きました。

突然の訪問者 [ふたりぽっち序章2]

小学校生活にも慣れてきた土曜の午後
4時間授業が終わり帰宅すると
父の部屋(応接間と呼んでいました)に誰かが寝ていました。
あれ?
ベットから出ている手に母と同じオパールの指輪が・・・。
「おかあちゃん!」と思わず声をかけました。
起き上がったその人は、母とは似ても似つかない別人でした。
「あら、もう帰ってきたの?」と言ってばつが悪そうに
下着姿の胸元を隠していたその人が後日、私より2歳年下の女の子を
連れて義母として家に住む事になったのです。

その人、義母は隣町で居酒屋を開いていました。
父と知り合った経路は知りませんが、母が居る頃からの
付き合いだった様です。
父は義母の娘を養女とし、再婚したのです。
私が小学校2年生の6月の頃でした。

姉は中学生になっていました。
ちょうど思春期に入った頃で、幼い私には何も解らなかったのですが
父が大好きだった姉には、再婚はかなりショックな出来事だったらしく
義母と話をする事も敬遠していて、いつも自分の部屋に閉じこもる様に
なっていました。
かという私も、義母が大嫌いでした。
容姿が悪く、特にひどいO脚で後ろから見るとまるでガマガエル。
綺麗だった母とは月とすっぽんなその人を義母とは認められず
「おばちゃん」と呼んでいた私でした。


流れ行く月日の中で [ふたりぽっち序章2]

私は、母と別れて父と姉がいる福島へ戻ってきました。
姉は離れていた3年強の間に、凄く大人びた感じになり
とても頼れる存在になっていました。
まるで母のように私を気遣い、寂しさを忘れさせてくれました。
それでも夜になると、母に会いたくなるのは6歳の子にとっては
当たり前のことだと思います。
母を思い、布団の中でよく泣きました。

父は、私の小学校の入学準備品を買い揃えていてくれました。
赤いランドセルを見たときにとても嬉しかったのを覚えています。
入学式には東京から母も来てくれて、私の小学校生活が始まりました。
姉も6年生になり、二人そろって登校していたので何の不安も無く
学校生活をスタートできました。

秋になり、母が出産のために帰ってきました。

隣の町に祖母が引っ越してきていたのです。
私は寂しくなると、いつも祖母の所へ遊びに行っていました。
祖母は樺太(現在のサハリン)育ちです。元々は北海道の旭川に居たのですが
戦時中のゴタゴタで樺太へ行ったようです。そのせいか母も少しだけロシア語を話せます。

祖父は本土に戻ってから神主をしていましたが、52歳で脳溢血のため亡くなりました。
私が生まれる前の事なので、祖父は写真でしか見たことがないです。

母は11人兄弟です。今の少子化時代からは考えられない数です。
子供のころは貧乏で嫌だったといつも話していた母ですが、
祖母は偉い人です。再婚もせずに11人の子供を育てあげた母親の鏡ですね!

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祖母が何をして稼いでいたかというと、それが微妙な話でよくわからない部分があるのですが
拝み屋をしていたと言うんです。今で言ったら占い師みたいなことなのかな?
まるで細木和子さんのようです。その他、針灸の資格も持っていて
自宅で稼いでいたようです。祖父が神主をしていたので、それなりの人脈もあったのでしょう。

母は無事に男の子を出産しました。私より7歳年下になる弟です。
母の夫も(私がパパと呼んでいた人)ボーリング(プロボウラーではありません土木系の仕事です)
の仕事をしており、わりと稼いでいて母は幸せそうでした。
産後1ヶ月あまり祖母の家に居た間は、私も毎日のように遊びに行っていました。
かわいい弟と、優しい母と過ごした1ヶ月はとても楽しかった。
でもまた別れはやって来ました。

母が東京へ帰る日、母を見送りながら決して泣かないと決めていたのに
走り出す電車を前に、やっぱり泣いてしまいました。
「ごめんね、かすみ!また来るから頑張って勉強するんだよ」と言う
母の言葉を聞きながら、泣きじゃくり返事が出来ない私でした。





父と母の離婚 [ふたりぽっち序章]

6畳一間のアパートで東京生活が始まりました。
2階の窓から見える外の景色が大好きだった。
暇さえあれば外ばかり眺めていました。

隣には私と同じくらいの姉妹が住んでいました。
よく一緒に遊んだのを覚えています。
姉妹で仲良く遊んでいるのを見るたびに
姉に会いたくてしかたありませんでした。
母に「お姉ちゃんはこないの?」と聞くと
「お姉ちゃんはお父ちゃんが好きだからあっちにいるんだよ」
といつも同じ答えを言っていました。

実際、このころの姉は小学2年生で学校もあり
母も連れてこれなかったのかとも思いましたが
母は夜になると仕事に出かけていたので
経済的な余裕も無かったのだと思います。

この時期に私の親権を争い裁判が始まりました。

私が思春期になったころ
家を出た母の行動を理解しようと思い返してみましたが
何不自由ない生活を捨てて、東京で貧乏生活をしている母の行動は
やはり理解できませんでした。
私の姉も「子供を捨てて出て行く母親なんて親じゃない」と
大人になった今でも時々話しているので
子供のころに受けた傷は、なかなか消えないものだと実感しています。

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夜は新しいパパと過ごしていました。
一緒に銭湯へ連れて行ってくれたり、食事に行ったり
よく面倒を見てくれました。
1番思い出に残っているのは、肩車をして東京タワーに登ったことです。
父は子供とスキンシップを取れる人ではなかったので
とても嬉しかったのを覚えています。
考えてみればまだ二十歳を過ぎたばかりの独身の男性が
子供のいる人妻と付き合うのは珍しいことですよね!
まるでドラマのようなお話です。

母も父に愛されていることは解っていたけど
愛情表現が下手な父に心を動かされることが出来なかったのでしょう。
好きで結婚をした訳でもなかったし・・・。
男女の愛情は理屈じゃないと思うから、大人になった今は
母の行動を少しだけ理解出来る様な気がします。

私も東京の幼稚園に通い始めました。
もともと身体が丈夫でなかったので、しょっちゅう熱を出して
おやすみしていたので、そのころの記憶は殆どありません。
母がたくさんの写真を残してくれていたので
それを見ると、うっすらと記憶が蘇る程度です。

七五三の晴れ着を着て、千歳あめを持った私の写真は
とても嬉しそうで、一緒に写っている母が驚くほど綺麗なのに
驚かされます。

東京での生活も3年が過ぎたころに、親権裁判の結果が出ました。
母は負けました。
経済的な理由と、他の男性と住んでいることが問題だった様です。
私は小学校へ入学する時までには、父と姉がいる福島県へ戻ることになりました。
母と別れることより、姉に会えることの方が嬉しくて
その後の寂しさなど子供の私にとっては、予想も出来ないことでした。
そのころの母の気持ちも、考えることすらありませんでした。

私が福島に戻るころ、母のお腹には私の弟が生まれ出る時期を待っていました。











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私の生い立ち [ふたりぽっち序章]

私が生まれたのは、映画フラガールで有名なハワイアンズがある
福島県いわき市のすぐ近くの小さな町だ。
私が住んでいたころは、とにかく自然が美しい所で
温泉街もあり、癒しの場所として今でも
秘湯を探す旅人で賑わっている。

私は料亭の次女として生まれた。
5歳上の姉がいる。
父は商売の才能があったのか、料亭も座敷が6つある大きな店で
そこそこ客つきも良かった。
料亭を開いて5年後には、4つ駅の離れた町に高級クラブを
オープンさせた。
ホステスの女性が8人いる、ダンスホールとバーをかけ合わせたような店だ。
田舎だけれど、興行に来る芸能人も多く
ステージが終わると、家の店に遊びに来た。
私も子供のころにサインを貰ったのを覚えている。

私の母は、19歳で父と結婚した。
昔のことなので貧乏な家に生まれた母は、金持ちの家の父と
政略結婚させられたらしい。父は母より18歳年上だった。
良くわからないが恋愛結婚でないことは確かだ。

父はお酒をあまり飲めない人だった。
よく口癖のように言っていた事がある。
「酒が飲めないから、酒を売れるんだ」と
子供のころには良くわからなかったが、大人になった今では
何となく意味がわかるような気がする。
「飲んだら乗るな、飲むなら売るな」みたいな感じかな?

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父と母の仲睦まじい姿は、あまり記憶に無い。
料亭は人に任せて、新しいお店の方で母もクラブのママとして
店で働いていた。若くて綺麗な母はとても人気者だった。
なにせまだ20代後半な訳だし、お店に立っているだけで
絵になる。
常連のお客さんも出来て、お店が軌道に乗ってきたころから
父と母はよく喧嘩する様になった。
原因は定かでないが、母は父のやきもちだと言っていた。
年が離れていて、まるで娘のような妻が
若い常連客と楽しそうに、話したり踊ったりしている姿を
商売だとわかっていても、我慢できなかったのかもしれない。

父は母をとても愛していたんだと思う。

私が大人になり、父が晩年を迎えるころ
私を母の名でよく呼んだことを考えると、愛情の深さを理解できる。

私が3歳になるころ、母は父の暴力に耐えかねて家を出た。
その少し後、母が住む東京へ引き取られたが
そこには母よりも10歳近くも若い男性がいた。
母は、「今日から、かすみのパパになる人だよ」といい
何も知らない私は、その人をパパと呼ぶ新たな東京での生活が始まった。













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最初の出会い [ふたりぽっち序章]

理恵との出会いは、小学校のPTA総会である。
お互いの子供が同級生でクラスは違うものの、周りにまくし立てられて一緒に
役員になったのが始まりだった。

理恵は葬儀屋の娘で、旦那さんは当然マスオさんなのだが
これがまたいい人で、仕事熱心な物凄い愛妻家だ。
理恵の実家である葬儀屋は、理恵の旦那の頑張りで
支店を出すまでに拡張していった。

当然ながら、凄い金持ちで
子供たちには、月に何十万も教育費を使い
理恵といったら全身ブランドずくめで、まるで歩くブランドだ!
それでもスタイルが日本人離れした ボン・キュッ・ボンなので
嫌味が無くカッコよかった。
存在感があり、父兄の中でもとても目立つ存在だ。
逆に金持ちで美人な理恵は、周りから浮いてしまい
心を割って付き合える友人は出来なかったようだ。

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私はというと、子供の給食費をやっと払っているような
ど貧乏で酒癖の悪い暴力夫に悩まされていた。

夫の実家は中小企業ながら社員数が200人ほどいる
建設会社で、オーストラリアにも別荘を持つ金持ちだ。

夫の父が1代で築きあげた会社で、九州の高校を卒業してから
裸一貫で建設業界に入り、地位を作り上げた実力者である。

その息子(夫)は、小学校の時に陸上の100メートル走で県で1番目の
記録を出し、高校・大学と野球のスポーツ特待A推薦入学のスポーツマン。
結婚の決め手になったのも、そこにあったのかも知れないが
実際は、そんなに甘くなく俗に言う「お坊ちゃん」の夫は
苦労知らずで、困難に立ち向かうことが苦手な社会性の低い人でした。







タグ:PTA総会
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