SSブログ
ふたりぽっち序章 ブログトップ

父と母の離婚 [ふたりぽっち序章]

6畳一間のアパートで東京生活が始まりました。
2階の窓から見える外の景色が大好きだった。
暇さえあれば外ばかり眺めていました。

隣には私と同じくらいの姉妹が住んでいました。
よく一緒に遊んだのを覚えています。
姉妹で仲良く遊んでいるのを見るたびに
姉に会いたくてしかたありませんでした。
母に「お姉ちゃんはこないの?」と聞くと
「お姉ちゃんはお父ちゃんが好きだからあっちにいるんだよ」
といつも同じ答えを言っていました。

実際、このころの姉は小学2年生で学校もあり
母も連れてこれなかったのかとも思いましたが
母は夜になると仕事に出かけていたので
経済的な余裕も無かったのだと思います。

この時期に私の親権を争い裁判が始まりました。

私が思春期になったころ
家を出た母の行動を理解しようと思い返してみましたが
何不自由ない生活を捨てて、東京で貧乏生活をしている母の行動は
やはり理解できませんでした。
私の姉も「子供を捨てて出て行く母親なんて親じゃない」と
大人になった今でも時々話しているので
子供のころに受けた傷は、なかなか消えないものだと実感しています。

28s.jpg

夜は新しいパパと過ごしていました。
一緒に銭湯へ連れて行ってくれたり、食事に行ったり
よく面倒を見てくれました。
1番思い出に残っているのは、肩車をして東京タワーに登ったことです。
父は子供とスキンシップを取れる人ではなかったので
とても嬉しかったのを覚えています。
考えてみればまだ二十歳を過ぎたばかりの独身の男性が
子供のいる人妻と付き合うのは珍しいことですよね!
まるでドラマのようなお話です。

母も父に愛されていることは解っていたけど
愛情表現が下手な父に心を動かされることが出来なかったのでしょう。
好きで結婚をした訳でもなかったし・・・。
男女の愛情は理屈じゃないと思うから、大人になった今は
母の行動を少しだけ理解出来る様な気がします。

私も東京の幼稚園に通い始めました。
もともと身体が丈夫でなかったので、しょっちゅう熱を出して
おやすみしていたので、そのころの記憶は殆どありません。
母がたくさんの写真を残してくれていたので
それを見ると、うっすらと記憶が蘇る程度です。

七五三の晴れ着を着て、千歳あめを持った私の写真は
とても嬉しそうで、一緒に写っている母が驚くほど綺麗なのに
驚かされます。

東京での生活も3年が過ぎたころに、親権裁判の結果が出ました。
母は負けました。
経済的な理由と、他の男性と住んでいることが問題だった様です。
私は小学校へ入学する時までには、父と姉がいる福島県へ戻ることになりました。
母と別れることより、姉に会えることの方が嬉しくて
その後の寂しさなど子供の私にとっては、予想も出来ないことでした。
そのころの母の気持ちも、考えることすらありませんでした。

私が福島に戻るころ、母のお腹には私の弟が生まれ出る時期を待っていました。











nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

私の生い立ち [ふたりぽっち序章]

私が生まれたのは、映画フラガールで有名なハワイアンズがある
福島県いわき市のすぐ近くの小さな町だ。
私が住んでいたころは、とにかく自然が美しい所で
温泉街もあり、癒しの場所として今でも
秘湯を探す旅人で賑わっている。

私は料亭の次女として生まれた。
5歳上の姉がいる。
父は商売の才能があったのか、料亭も座敷が6つある大きな店で
そこそこ客つきも良かった。
料亭を開いて5年後には、4つ駅の離れた町に高級クラブを
オープンさせた。
ホステスの女性が8人いる、ダンスホールとバーをかけ合わせたような店だ。
田舎だけれど、興行に来る芸能人も多く
ステージが終わると、家の店に遊びに来た。
私も子供のころにサインを貰ったのを覚えている。

私の母は、19歳で父と結婚した。
昔のことなので貧乏な家に生まれた母は、金持ちの家の父と
政略結婚させられたらしい。父は母より18歳年上だった。
良くわからないが恋愛結婚でないことは確かだ。

父はお酒をあまり飲めない人だった。
よく口癖のように言っていた事がある。
「酒が飲めないから、酒を売れるんだ」と
子供のころには良くわからなかったが、大人になった今では
何となく意味がわかるような気がする。
「飲んだら乗るな、飲むなら売るな」みたいな感じかな?

13s.jpg

父と母の仲睦まじい姿は、あまり記憶に無い。
料亭は人に任せて、新しいお店の方で母もクラブのママとして
店で働いていた。若くて綺麗な母はとても人気者だった。
なにせまだ20代後半な訳だし、お店に立っているだけで
絵になる。
常連のお客さんも出来て、お店が軌道に乗ってきたころから
父と母はよく喧嘩する様になった。
原因は定かでないが、母は父のやきもちだと言っていた。
年が離れていて、まるで娘のような妻が
若い常連客と楽しそうに、話したり踊ったりしている姿を
商売だとわかっていても、我慢できなかったのかもしれない。

父は母をとても愛していたんだと思う。

私が大人になり、父が晩年を迎えるころ
私を母の名でよく呼んだことを考えると、愛情の深さを理解できる。

私が3歳になるころ、母は父の暴力に耐えかねて家を出た。
その少し後、母が住む東京へ引き取られたが
そこには母よりも10歳近くも若い男性がいた。
母は、「今日から、かすみのパパになる人だよ」といい
何も知らない私は、その人をパパと呼ぶ新たな東京での生活が始まった。













nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

最初の出会い [ふたりぽっち序章]

理恵との出会いは、小学校のPTA総会である。
お互いの子供が同級生でクラスは違うものの、周りにまくし立てられて一緒に
役員になったのが始まりだった。

理恵は葬儀屋の娘で、旦那さんは当然マスオさんなのだが
これがまたいい人で、仕事熱心な物凄い愛妻家だ。
理恵の実家である葬儀屋は、理恵の旦那の頑張りで
支店を出すまでに拡張していった。

当然ながら、凄い金持ちで
子供たちには、月に何十万も教育費を使い
理恵といったら全身ブランドずくめで、まるで歩くブランドだ!
それでもスタイルが日本人離れした ボン・キュッ・ボンなので
嫌味が無くカッコよかった。
存在感があり、父兄の中でもとても目立つ存在だ。
逆に金持ちで美人な理恵は、周りから浮いてしまい
心を割って付き合える友人は出来なかったようだ。

14s.jpg

私はというと、子供の給食費をやっと払っているような
ど貧乏で酒癖の悪い暴力夫に悩まされていた。

夫の実家は中小企業ながら社員数が200人ほどいる
建設会社で、オーストラリアにも別荘を持つ金持ちだ。

夫の父が1代で築きあげた会社で、九州の高校を卒業してから
裸一貫で建設業界に入り、地位を作り上げた実力者である。

その息子(夫)は、小学校の時に陸上の100メートル走で県で1番目の
記録を出し、高校・大学と野球のスポーツ特待A推薦入学のスポーツマン。
結婚の決め手になったのも、そこにあったのかも知れないが
実際は、そんなに甘くなく俗に言う「お坊ちゃん」の夫は
苦労知らずで、困難に立ち向かうことが苦手な社会性の低い人でした。







タグ:PTA総会
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
ふたりぽっち序章 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。